岩手県保育士・保育所支援センター

新任保育士研修〜就業継続研修〜

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2014.7.5

江刺保育園 遠藤清賢

保育の働きとは 〜保育士としての自覚を持つために〜

1、保育とはいかなる働きなのか

 保育とはどのような働きなのでしょうか。「子どもを安全に預かる働き、子どもの成長を支える働き、働いている保護者に代わって子どものお世話をする働きである。」その定義は様々にあると思います。いずれの意見も正しいと思いますが、ここで突き詰めて保育という言葉を私の個人的な考えとして説明すれば、「子ども達の命を守り、この社会のなかで人間として正しく生きために必要な知恵を授け、その成長を支える働きである。」というと思います。保育は乳幼児期の子ども達の成長を支えるために、また人間が良く生き続けるために絶対に必要な業(働き)なのだということができます。

この保育という業を等閑にしてしまうと、私たち人間の未来は非常に悲観的なものになってしまいます。保育は人間が生きるために必要な精神と知恵を子ども達に授ける働きですから、保育する者自体が人間として生きるために必要な精神と知恵を持っていなければなりません。しかし、現代社会においてその精神も知恵も忘れてしまった人たちがいます。また、本来あるべき私たちが長年培ってきた保育する文化を価値のない物にしてしまう世の中の風潮が非常に多くなってしまいました。私たちの社会自体が保育の重要性を軽んじてしまっています。その結果、人間が生きるための正しい方向性も見失われてしまっている社会状況になっています。

この状況は子どもの心を理解できない理解しようとしない社会、大人の価値観を強要する社会、欲望に連動した価値観、そして強い者が価値があり、多数の意見が正しいという社会なのです。何が正しいのか、何が誤りなのか、分からなくなっている社会の状況なのです。子ども達を育む遊び環境を無駄なものとして破壊してしまい、自然の命の仕組みを子どもたちが体験できる環境は失われてしまいました。みんなで子ども達を守らなければならないという子育てのための精神的な環境も失われてしまいました。そして親が子供を育てられない社会、育てようとしてもそれを受け入れない社会になっています。具体的には夜昼の区別のない生活リズム、大人の生活を子どもに押し付けています。子どもとの会話をする代わりにスマホを見る時間の多い母親、様々なメディアで配信されるゲームを平気で子ども達に見せている社会、児童虐待それも非常に悲惨な虐待事件の増加、早期の競争教育、貧困や孤独、そして親世代の心の病気、など毎年増加しています。お互いを支え合って生活していた家族が、しかも家族の中でお互いを傷つけあうような家族になってしまう状況も見られます。はたしてどのような未来になるのか非常に心配です。

 保育施設はこのような社会と戦っていると言っても良いのです。その最前線にあるのが我々保育者であり保育士なのです。子どもを育てられなくなった社会に代わって、私たちは子ども達に正しい生き方を伝え、生きるために必要な精神と知恵を、私たち自身の生きている姿を通して子ども達に伝えています。私たちの働きは非常に重要なのです。人間の未来を私たちの働きが大きく左右していることをそれぞれ保育士の皆さんは自覚して頂きたい。この保育という働きはただ単に生活の糧を得るためだけの働きではないのです。この働きは非常に尊い働きなのです。社会貢献の働きでもあり、未来社会を創造しより良い未来社会の構築し、壊れかかった社会を再生する働きを実践しているのです。これが保育なのだということをまずしっかりと自覚してください。

2、人間はどのように生きて来たのか

 原始時代の人たちは狩猟生活でした。自然の中に育まれている木の実、果物、動物、魚、貝、等を摂って命を繋いできました。狩猟生活は季節と共に移動する生活でした。それから木の実や穀物の種を見つけそれを栽培する技術を見つけ出し、定住する生活が始まり、共同生活が定着し生活単位として家族が形成されたのです。多くの動物は生まれるとすぐ立ち上がり自由に移動できるのですが、人間は一人で生きて行けるようになるのは1015年くらいの時間を必要とします。人間は一人では生きていけない弱い存在です。乳児期は必ず専門に世話をしてくれる大人ないなければ成人することができません。そのような長い歴史の中で様々な子育てが行われてきたのです。原始時代からの子育て歴史は人が人間として生きるために必要な精神文化を進歩させてきたのです。そして、子どもは愛情によって育てるという知恵を私たちは学習し、その知恵が今の時代も引き継がれています。愛情とは無条件に命を大切にする実際の行為であり、命を守る、その成長を支える行為です。そのために家族という生活単位が維持されてきました。子どもを育てる、年老いた家族の世話をする、力を合わせて食べ物を獲得する、女として男としての役割が出来上がり安全で、安心できる生活環境を創り上げるために人間は努力してきました。その努力の原動力はお互いの愛情関係があったからだと私は思います。そして農作物の畑を中心にして家族という生活単位が集合し村や町となり、農業だけではなく様々な道具を作る工業が発達し、貨幣が流通し、大きな富を握った人間がその集団を支配する国家が形成されたのです。家族という生活単位は愛情による繋がりでしたが、国家というつながりは生産性と利益であり、より多く、より強く、という欲望の繋がりに変化してきたように思います。

 人間はお互いを支え合うという生き方が自然の生き方なのです。私たちの社会ではすべての働きは自分の為というよりは他者を生かすためのという働きになっています。農業にしても、漁業にしても、工業にしても、それによって生み出されたものは多くの人たちの暮らしを支えています。その働きによって私たちは金銭という代価を手に入れ、自分が生きて行くための糧を手に入れています。しかし、私たちが、より多くの利益が欲しいという欲望を抱き始めた時、社会は大きく変化してしまいました。一人の人間がその野望を抱き、権力を持った時独裁国家が形成されました。独裁者は長く続きませんが、多くの人が他者よりもより多くの利益を得たいと思い始めた時、人々はこぞって競争を始めたのです。当初は力を合わせ協力することで人のために働き、その利益を平等に分配できる社会を目指したのですが、徐々に人々はより多くの生産物を生み出し、より多くの利益を手にしたいという欲望が暴走し、自分の欲望を満たすために協力して働かなければならないと考えるようになってしまったのです。働くことは他者を生かすことではなく、より多くの利益を生み出すこと、自分の思いを満たすことに変化してしまったのです。他者のために働く生き方から、自分のために他者と競争しより多くの利益を得る生き方が現代人の生き方になってしまったのです。

3、人間のあるべき生き方とは

 現代社会は競争社会になってしまいました。他者よりもより早く、より多く、より強く、そのために自分の能力をより高めなければならないと誰しも思うようになりました。社会制度もより競争を意識させる制度になっています。競争に勝つことがより良い未来に繋がっていることを子ども達に強く意識させる教育が行われています。その競争があまりにも激化してしまい勝ち負け、または強弱によって人間としての価値が、人の生き方を決定してしまう社会になっているのです。その結果、勝つ者、負ける者が区別され様々な格差が生まれてきたのです。経済的な格差、生活の質の格差、教育の格差、これらは競争社会によって生み出されてきた結果です。この中で人間はいかに生きるべきなのかを見失ってしまったのです。人類の長い歴史の中で育まれてきた他者のために自分の命が生かされているという事実を人間は忘れてしまいました。人間は父、母、から生まれ、親の愛情によって成長する生き物です。この原理が現代社会は脆くも崩れ去ってしまいそうです。人同士を繋げている絆が弱くなってしまったのです。社会は弱いものを助け支える社会ではなく、弱いものを蔑み、傷付け、利己的な社会になっているようです。勝つことにこだわり、勝つことが優先される教育が続けられた結果がこのありさまなのです。一般の企業においても利益が得られなければその企業は存続することができなくなります。利益を求めることがすべてにおいて優先され、個人がいかに苦しんでいても、企業にとっては人の働きが企業の利益に繋がらなければ、個人の問題はとるに足らないことになっているのです。そして、その結果として、虐めや、虐待、DV、孤食、孤独、引きこもり、あきらめ、心の病、自分自身を信じられず、生まれてきたことを苦しみと捉え、生きていること自体が辛く、誰も愛することができず、誰にも愛されていないと思っている人たち、子ども達がいかに多い事でしょう。この社会に順応できない人たちは、生きていることを悲観し、精神を壊してしまい理由もなく他者の命を抹殺するとか、自殺などを行ってしまうのだと思います。外国で頻繁に起きているテロも、このような過剰な競争と格差によって生まれたものかもしれません。

 保育はこの社会に人間としてのあるべき生き方を指し示す働きなのです。人間は競争して、他者を傷つけながら、生きる生き物ではないことを子ども達に伝え、その成長を支えながら、社会に訴え続けているのです。人間の本来あるべき生き方は、お互いのために私たちは生かされているという生き方です。「一人が生きることによって、多くの人の命が支えられ生かされている。」これが私たちなのです。自分一人だけで生きて来たのではなく多くの人たちに愛され支えられて今の自分が存在していることを心に刻み込まなければなりません。人間であるということの原理原則は「愛し、愛される」ことができること、この愛を実践できることです。保育は生まれてきた子ども達に初めに人間として生きるためのこの原理原則を人間であることの真の精神を子ども達に伝える働きなのです。

4、保育園の具体的な働き

 保育は、人はどのように生きるのかを子ども達に伝え、その成長を支える働きです。この世に生まれたときから、厳密には母親の胎内に命の灯がともったその時から保育は始まります。保育園として乳幼児の保育に最も貢献してきたことはこの乳児保育の分野です。そして保育の専門性の部分における具体的な対応のノウハウはかなり部分において確立されていると思います。生まれたばかりの子どもにとって最も大切なことは愛情をもって対応することです。無条件の愛情を掛けながらすべての事柄について必要な対応を行うことです。生まれたばかりの子ども達は自分の欲求、思いが満たされているという体験を積み重ねることによって自分は大切にされている、愛されているということが心の中に刻まれます。そしてその子ども達は無条件に親を愛することができるようになるのです。私たち保育士が話しかける言葉にも「あなたは私たちの大切な命、大切な子ども」という優しい思いを込め、優しい表情で語りかけています。言葉の保育において大切なことは、文字を操作することではなく、言葉を受け止め、言葉に心を込めるということです。言葉は情報を処理する道具としてではなく自分の心の表現として、子どもたちが使えるようにすることが大切です。言葉の中にある子どもの思いを保育士としてどのように聴きとるのか、どのように想像を膨らませそれを如何に対応するのかを考え実践するのが保育の働きなのです。このような対応によって基本的信頼感が確立されて、自己肯定感を子どもたちは持つことができるのだと思います。そして、次の段階に成長することができるのです。この「愛する、愛される」という行為を実践する働きが保育でありその担い手が保育士なのです。「愛する、愛される」は「好きとか嫌い」ということではなく、また子ども達のために私たちが自分の命を削るという自己犠牲ということでもありません。精神と行動が一体となった人間として生きている中で自然に湧き上がる、命を大切にしたいという具体的な行為なのです。そしてこのことを私たちは保育と言っているのです。

 保育は子ども達の成長によってその対応は違ってきます。0歳から1歳前半、1歳後半から2歳、3歳、4歳、5歳と子どもたちの成長は大きく変化します。その変化を見極めながら、同時に変化を予測しながら、私たちは適切な保育対応を行っています。成長の変化を見極めるため、より適切な予測を行うために保育計画を策定し、保育対応を行っています。特に2歳後半から3歳に架けての人間関係の分野において子ども達は個人の関わりから、集団への関わりに移行します。この時期に子ども達は自分と多くの自分と同じような他の子どもたちを見比べることによって「自分はどんな人なのか」を意識できるようになり、友達という存在を認識できるようになります。自分自身を人生の中で初めて見つけ出す時期なのです。そのために、どのような環境設定をすべきなのか、どのような遊びを子ども達に伝えるのかを保育士は考え工夫しなければなりません。保育園の子どもたちは幼い日から集団生活を行っているのでよい友達関係を形成する基礎は早い時期に出来上がります。当然、ケンカや物の取り合い、などの頻繁に見られます。言葉の出ない時期は自己主張の代わりにかみつき等の行為もあります。大怪我の危険がある時以外は、ただ単に「いけないこと」という対応するのではなく見守りを主としある程度この成り行きを観察することが求められます。そして徐々に子ども自身がケンカよりもみんなで遊ぶことの方が何倍も楽しいという体験を積み重ねることによってさらに良い人間関係を形成する能力が高められるのです。このような集団での生活体験が無ければ、子どもの「愛する」対象が広がらないのです。幼い時期における集団での生活体験がないと命の大切さ、みんなで生きていることの大切さを理解できない利己的な「自分さえ良ければいい。」という人間になってしまう可能性があるのです。

 保育の働きで、子ども達の心の成長を支えることと同様に重要なことは「食を教育する」ことです。「食する」ことは命に直結した行為です。正しい食生活ができない場合心身の健康を保ち、健康に生きることができなくなります。すべての生き物は、自分の子どもにいかにして食物を獲得するのか、何を食べるのかをしっかりと時間をかけて教育します。それができないと生きて行けないからです。今の人たちは子ども達に食を教育しなくなってしまいました。これは努力しなくても食物を得ることができる社会になっているからです。日本の子どもたちはいつでも食べ物は手に入れることができると思っています。この食によって自分たちの命がどのように保たれているのかを知らない人たちがあまりにも多いのです。食物がどこにも溢れかえっていて、その大切さを理解できず、食を大切なものとして考えない社会になっているからです。食することを忘れた生き物は生きることを放棄したということです。ですから、特に日本人は生きることを真剣に考えない民族になっているということかもしれません。食物はそれ自体が命であり、その命が失われてしまったら人間本人の命も失われてしまうということを考えない社会になってしまいました。義務教育での食教育の時間は殆ど無きに等しいのです。子ども達に食の本質を教育しない社会は人間としてのあるべき生き方を未来に繋げることができなくなることが予測されます。「食する」ことは生きる気力を持たせ、生命力の源になるのですが、現代人は生きるという気力を失いかけているようです。最終的には人間の生命力は徐々に弱体化するだけなのかもしれません。

 唯一この食教育を真剣に取り組んでいるのが保育なのです。私たち人間は自然の命の循環の中に生かされていることを子ども達に伝え、その循環を維持しながら自分の命を維持する術を畑の野菜作り等の農業体験や栄養指導、調理体験等の食育という保育によって伝えています。子ども達が好き嫌いなく健康に命を保つこと、体の健康だけではなく正しい食生活が精神の健康に繋がっていることを体験させています。母乳から離乳食に代わり、普通食と変化して行く中で、家族としてのお互いの愛情が育まれ、家族の絆が形成されるのです。この食を教育する場は家庭でしたが、それ以外では調理や栄養士を養成する専門学校と保育園だけになってしまいました。食を大切にすることは、命を大切にすることであり、食を調理し、それを食べることは、愛すること、愛されることと同じであることを確認して欲しいと思います。

5、子ども・子育て支援新制度

平成27年度より新しい制度が始まります。今までは子どもたちが利用できる施設は主に幼稚園と保育園でした。幼稚園は文部科学省が統括し、保育園は厚生労働省が統括していましたが、新しく幼保連携型認定こども園という施設が誕生することになりました。この施設は文部科学省と厚生労働省が一体となって統括する施設です。この幼保連携型認定こども園に移行するのかどうかは各施設で決めることができます。幼稚園は殆ど新しいこども園に移行するようです。既存の幼稚園、保育園は今まで通りに存続することができます。保育園を利用するには「保育に欠ける」という条件がありますが、新しい認定こども園はその条件がなくなりどんな子でも利用できる施設になっています。そして、利用者は新しい認定こども園と直接契約になります。現行の保育園の利用は施設との直接契約ではなく行政との契約です。従って今までは利用者と施設は金銭関係ではなく信頼関係によって維持されてきましたが、新制度のこども園は金銭関係になってしまいます。また、もう一つの大きな変化は保育認定が行われるということです。認定は1号認定、2号認定、3号認定となっていて、1号認定は3歳以上の保育を必要としない子ども、2号認定は3歳以上で保育を必要とする子ども、3号認定は3歳未満児で保育を必要とする子どもというふうになります。2号と3号認定は長時間保育と短時間保育に区別されることになります。長時間保育は11時間の開所時間内での保育時間となっています。短時間保育は8時間の利用時間を基本した利用時間ということになっています。短時間、長時間の区別は保護者の就労時間によって決定されます。当然フルタイムの方は長時間で、月48時間から68時間の短時間労働の方は短時間保育を利用することができます。この時間は市長村によって異なっています。定員も認可定員と利用定員に区別されています。認可定員はその施設全体で受け入れることのできる定員で、利用定員とは各認定、クラス、年齢による定員です。保育給付は利用定員によって決定されます。認可定員以上に子どもを受け入れることができなくなります。また3歳という年齢の区切を設けて3歳以上児に対しては学校教育を行い、3歳未満児は保育を行うという規定になっています。教育と保育をこの法律は明確に区別しています。保育認定は早い市町村では10月くらいから始まるかもしれません。新しい制度に関して、国の進行と市町村そして施設の進み方は並行しています。実際、利用者はこの制度について周知されないまま施行されることになりそうです。施行時期は平成27年度と決まっています。

この制度は子どもが利用する施設を幼稚園、保育園と区別することを止めるという制度です。全く新しい子どもの成長を支える制度になっています。大きな特徴は保育を社会福祉という捉え方ではなく、市場経済の中に位置づけ保育産業としています。社会福祉の働きが優先されず、経営の前面に押し出している制度です。国は保育の働きをそのように方向転換させたことが一番大きな変化なのです。現行の保育園、幼稚園として運営を続けたいと思っても、いずれこの市場経済の流れに乗らざるを得ないと思います。利益を確保することが大前提で、利益が得られなければ運営をすることができなくなります。これに対処するために私たちがしなければならないことは保育の働きを高めることに尽きるのです。


6、教育と保育

 平成27年度から始まる新しい「子ども・子育て支援新制度」において「教育」と「保育」を区別した制度が計画されています。3歳以上の幼児から学校教育を始めるという制度です。3歳児以下の子どもの保育は教育的な対応とは異なり、0歳から2歳後半までの乳児保育は教育的な対応ではないかのように考えられてしまう制度なのです。新しい制度において学校教育とはどんな教育なのか、具体的に示されていません。一般的に考えると子ども達の「出来る、出来ない」を評価する教育のように思われます。具体的には文字を書ける、文字を読む、数を数える、計算ができる、様々な知識を覚える、運動能力を向上させる、というようなことが考えられます。今まで論じてきたように特に乳幼児期の保育は心の成長、精神形成に視点を置いています。この乳児期の対応は教育ではなく養護の対応であり、3歳以上になってから学校教育の対応を行う制度であると規定しています。この制度設計において保育と教育の充分な議論がなされず、とにかく新しい制度の施行を急いだために様々なほころびが出ているのです。はたして、これは正しい事ではないように思います。

保育施設として確認しておかなければならないのは、子どもの成長には段階があるということです。人間としてより良く生きるための基礎を作るのが乳幼児保育ですので、それぞれの年齢における成長の段階を確実に体験することによって、子どもたちがあるべき人間として成長できるのです。3歳以上から学校教育を行うという制度になりますが、3歳から出来る、出来ないということに重点が置かれてしまうと、子ども達の心身の大切な基礎の部分が形成されない恐れが出てきます。離乳食を食べ始める赤ちゃんに高級なステーキを与えるようなものです。また、歩き始めたばかりの子どもに棒高跳びをやらせるようなものなのです。新しい制度での3歳以上の子ども達の学校教育を行うということを大人の価値観によって、子どものできる能力だけを主眼に置き指導することではないと思うのです。この時期の子どもたちは、それぞれの子ども達の思いを肯定的にとらえ、子どもの自主性を尊重しながら成長を支える保育が行われるべきなのです。従って子ども達に、ここまでが保育であるとかここからは教育であるという区分は実際の保育現場においては必要ではないと思います。保育には教育的な要素があるし、教育には保育的な要素が当然含まれているのです。子ども達を集団でとらえるのではなく、それぞれの子ども達の個々の姿を見極めながら、成長を支えるのが保育園での保育であり教育なのだと思います。

心の成長とはどのようなことなのか考えてみましょう。まず赤ちゃんは安心感を持たせることです。そして徐々に目に見える環境に興味を持ち、人の呼びかけに答え、オムツ交換や授乳などによって優しさを感じ取る心を獲得します。そして、歩くことができるようになり、他者との関わりながら遊ぶことの楽しさを体験するのです。友達を獲得することで楽しさのほかに、楽しくない気持ちも体験します。その中で自制心を養い、自分がどんな子どもなのかが判るようになります。卒園する頃には他者と気持ちを合わせることができるようになります。協調心が身に着くのです。共に生きること、共に生きたいという心、愛するという心の基盤が形成されます。これが重要なのだと思います。私たち人間は一人で生きるのではなく、自分の命は多くの人たちの命も支える存在であることを自覚しながら生きる心が供えられるのです。「愛する心、愛される心」を形成するのが保育なのです。保育園の教育の本質はこの部分にあるべきなのです。この心の成長が様々な能力の成長に繋がっているのです。自分のために様々な能力を身に着けるのではなく自分の今は多くの人たちが支えてくれた結果として今があることを自覚し、この保育された子ども達が現実にそのような社会を形成することができるように祈りながら私たちは保育をすべきなのです。利己的な自己実現のために私たちは生きているのではなく、この世で創造された命を守り、命を支えるために今を生きる存在であることを子ども達に伝えるのが保育なのです。

7、社会福祉施設としての保育園

 保育園の機能として忘れてはいけないのは、社会福祉施設としての働きです。保育園は家族の就労によって子育てを補償する働きとして生み出されたものです。従って、子ども達の食事を含め生活全般を支える機能を持っています。保育料は、一律ではなく利用者の経済力によって異なります。経済力のない家庭であっても同じように保育園を利用できる応能負担となっているのです。家族の経済力に関係なく等しく保育施設を利用できる制度になっているのです。日本は恵まれた生活をしている家庭が多いように考えられていますが、実際は非常に貧困家庭が多いのです。貧困を全く食べ物がない、住む家もない、明日を生きるための見通しが全くないという絶対的な貧困ではなく、相対的貧困という定義をした場合、日本全世帯の約1/5は貧困家庭になっているという統計があるのです。相対的貧困というのは国の1世帯あたりの平均年収の1/4以下で生活している世帯を相対的貧困家庭と定義しています。その年収は約120万円です。月約10万円程度で生活をしなければいけない家族が非常に多いのです。この経済力の差は子ども達の教育にも如実に現れてきています。母親が子どもと関わることのできる時間も非常に少なくなっています。とくに母子家庭は、母親一人の収入によって生活せざるを得ない家庭が非常に多いのです。この家族は食べることだけで精一杯な状況にあることは理解できると思います。当然、子育てができず、子育ての辛さだけが増してしまい、虐待をしてしまうという事件が多くなっているのです。

 日曜、祭日関係なく働かざるを得ない親たちや、深夜労働をしている親たちの子ども達のために、保育園は一時預かり保育、休日保育、深夜保育事業を行い保育の必要な子ども達を受け入れています。また障害のある子ども達も受け入れることができます。障害のあるなしに関わらず、同じ生活を体験できるのはこの時しかありません。この時期に子ども達は障害について体験的に知ることができます。そして障害によって差別することなく、お互いに支え合う友人としての関係を形成できるのです。そのためは、私たちがいかなる子供も、そのままに受け入れ、受容する保育を実践しています。また、疲れた母親の話を聴き、母親を励まし、そのような親たちの子ども達にありったけの愛情を注いでいます。保育園には、子どもの生活、命を支え守る人材が常に供えられ、子どもたちを受け入れることができるのです。保育園はどんな子どもたちにも、平等な保育を提供し、全ての子ども達が家庭の経済力の影響を受けず同じスタートラインに立ち、子ども達の成長によって今の苦しみを打開できる可能性と希望をもたらすことができる平等な保育と教育を提供しているのです。この非常に優れた制度がいま行われている私たちの保育制度なのです。日本の保育制度は非常に優れた制度であることを私たちは誇りにしてよいと思います。

保育の原点である「愛し愛される」ということを変えてはいけないのです。制度が代わりますが、保育をうけるための条件はかなり緩和されています。幼稚園、保育園の区別のない新しい施設も始まります。利用する側には、選択肢がかなり広がっています。私たちはこの新しい制度を賢く利用しなければなりません。ただ単に施設経営の存続のためにどちらの道を選ぶのかではなく、子ども達のために自分たちが実践できる保育はどちらなのかをよく考え選ぶべきです。同じ保育を行うことに於いて幸いにその収入に大きな差はない制度になっています。どのようにすべきなのかを私たち次第なのです。

いずれにしても、保育の制度がどのように変化するにしても、この社会にとって今行われている保育の働きは計り知れない存在意義があることを強く訴えます。子どもたちにとって、親たちにとって、そしてこの疲れ果てた社会の人々にとって、保育園は「人間としていかに生きるべきなのか。」という大切な方向性を指し示しています。子ども達のより良き成長がなければ人間の生命の河は枯れ果ててしまうのです。

保育は保育士の皆さんの自己犠牲的な働きではありません。保育は共感し、協調し、共に喜び、その喜びを分かち合いながら、より良く生きることです。そして、子どもたちがより良く生きることによって、私たち自身もより良く生きることができるのです。また、子ども達によって私たち自身も生かされ、支えられていることを皆さんと共に確認したいと思います。

皆さんに神様の豊かな祝福がありますように心からお祈りします。