地方にある子ども達の教育環境改善に向けての考察

トップページに戻る

2014820日 遠藤清賢

社会環境の変化

小学生高学年からあるべき精神的成長が遅れているように感じています。勉強ができる、出来ないということではなく、将来大人になってどのように生きるのかという意思が非常に虚弱になっているように感じています。

私たちの時代は勉強が出来なくても、将来自分の目指すべき方向性を誰でも考え持っていたように思うのですが、今の子たちは、自分が大人になった時の自分の姿を具体的に想像できない子ども達が非常に多くなっているように思うのです。

この社会はどのような仕組みになっていて、どのような仕事があり、どうすればその仕事をすることができるのかをあまり考えていないようです。出来るなら、働かないで楽をして出来るだけたくさんのお金が手に入るような生活をしたいと思っている子が多いのではないでしょうか。

体を動かさず、複雑な人間関係を逃れ、メールやスマホで済ませてしまうのです。メールやスマホをメディアはこぞって「多くの人たちと繋がることができる。」と宣伝しています。それがあたかも素晴らしい事のように伝えられています。

これは、情報は伝わりますが心は伝わりません。軽薄な会話によって簡単に他者の心を判断し、自分の合わない者を裁き、排除し、それがエスカレートしていじめに関わってしまうこともあります。

私たちは刹那的な生活ができれば良いというように心が変化してきているのかもしれません。生きるために本当に必要な精神や行動を煩わしく思ってしまう病に罹っているようです。

子どもたちはこの私たちの変化に敏感に反応し、同じように変わっているのかもしれません。他者との関係性を煩わしく思い、関係を持つことをやめ、自分一人好きなように生きたいという若者が多くなっています。結婚がまたは子育てが経済的に苦しいからということと同時に、関係を面倒だと思う気持ちが同調し結婚をしない人が多くなり、子どもが生まれなくなってしまったと思います。

この現象は私たち生活環境が激変したことが大きな要因になっていると思うのです。地域社会の弱体化や経済的な格差が子ども達の生活に大きな影響を及ぼしていると考えます。

教育の機会不均等

町場にある学校と過疎地にある学校では放課後活動に大きな差が出てしまっています。町場から離れた地方にある子どもたちはスポーツや文化活動ができない状況になっています。

統合され遠くから学校に通っている児童は授業が終われば時間に従ってバスに乗って帰宅しなければなりません。課外活動をする時間が制限されてしまいます。過疎化によって課外活動を指導する教師がいないとか、学校の統合によって遠くから通っている子ども達が課外活動する時間が無くなり、その結果、基礎体力が低下し、体幹が弱く、肥満が多くなっている原因の一つであるようです。

岩手県の肥満児童の割合は全国で最上位になってしまいました。食改善の方面からこの課題をとりあげていますが、統合による子ども達の生活環境が大きく変化していることを課題として話し合い、改善に向けて、教育現場での検討はあまりなされていないようです。子どもの肥満について、ただ単に食生活だけに視点を置いてその改善を声高に訴えたとしても有効な対策とはなっていないように思います。

都市部への集中

人は都市部に集中しています。国家の中枢も、企業の中枢も同様に都市部に集中しています。子どもたちの学校も町場に集められました。過疎化と少子化によって子どもが激減した地域の学校は町場の学校に統合されてしまいました。

今、統合されない地方にある学校も、将来は縮小するか、廃校するのかどちらかの方向で検討されているようです。都市部に集中されるということは、経費の削減や、人員の削減などの経営の合理的化や予算削減にとっては有効な手段のように考えられ、当たり前のように廃校や統合が行われています。これは本当に有効な手段なのでしょうか。

簡単に廃校や統合をするのではなく、奥州市の行政は、積極的に過疎地に拠点を移行したら何か新しい展開が生まれそうに思うのです。そのために新しい庁舎を建設するのではなく廃校しなければならないような学校に様々な機能を持たせ市の行政を展開できないのかどうか知恵を出す努力をして欲しいと思います。

会議や打ち合わせは
IT等のネットワークを活用すれば問題なくできると思うのです。子ども達の教育や保育もその中で行い、教師や地域の人たちが一体となってその成長を支える仕組みが生み出されてくるのは素晴らしいことです。

そしてそれぞれに地域に育まれている里山の産業を開発し、その地域で生産、商品化、販売、営業ができるような仕組みを考えられないのでしょうか。そうなればその地域全体に新たに生きる希望が生み出されてくるはずです。そのような取り組みを子ども達に見せ、体験させるような環境を行政として考えて欲しいと思います。

出来る、出来ないに偏った教育

子ども達の教育に関して、その教育内容が学力の向上、運動能力向上に大きく偏ってしまっています。課外活動にしても何らかの結果が伴わなければ教育を行う意味がないような傾向があるように思います。出来る者と出来ない者の格差が非常に拡大している現状が見られます。

簡単に言えば、日本の教育はエリート教育になってしまっています。全人的な人間形成が教育の中に見ることができなくなってしまいました。子ども達を弛まず努力させることによって自己の能力を高めることだけが教育として捉えられています。

そして、その結果は目に見える形でなければ評価されない教育になっているのです。この結果によって子ども達をランク付けして上位を価値付け、下位を価値の無い者として整理しているようです。これが本来の教育の目指すものなのかどうか疑問を持たざるを得ません。

教育は子どもたちが其々の教育課程の中で自己の能力を発見し、その能力を他者と比較するのではなく、将来生きる上で、いかに他者のためにその能力を活用することができるかを、見つけ出す動機付けにあると思います。自己の能力をこれしかできないとあきらめさせるのではなく、自分自身に無限の能力が備わっていることに希望を持ち、他者に支えられながら生きて行く力を研くことです。

これは当然、他者と比較されますが、その結果を「良し、悪し」で評価、判断されるものではありませんが、出来る、出来ないで総合的な人格までも評価してしまうことはあってはいけないことです。個人の持っている能力と個人の精神は別であることを教育者は心して指導しなければなりません。

人間の本来あるべき生き方を現代教育は等閑にしてきたように思います。この「人は如何に生きるべきなのか」という部分は各家庭に於いて親から子へ伝えられてきました。

しかし、現代社会は核家族化によって、家族と一緒に過ごす時間が喪失し、人間としての基本的な生き方を伝えられなくなっています。幼稚園や保育園での幼児教育、保育はこの部分に大きく貢献していると思いますが、幼稚園、保育園でも能力教育に力を注ぐような新しい制度に変えられようとしています。

しかし、私たちは子ども達の基本的な生き方を伝える精神教育をさらに推し進めなければなりません。さらに、小学校、中学校にもこの分野での教育に力を注ぐべきです。これは教師個人がその価値観で教育するのではなくそれぞれの地域に於いて培われてきた伝統や、宗教、老人たちの知恵、人生経験、様々な社会体験の中から学習できる環境設定を行うのが、教師としての役割であると思います。

生きるために何が大切なのかを大人として子ども達に強要するのではなく、子どもたちが様々な体験を通して悩み、考え、そして自分の生きる方向を見つけ出すことができるように支える教育を行うことが今必要なのだと思うのです。